夜行列車は、海の上を走っていた。

もちろん、そんな路線が時刻表に載っているはずはない。けれど窓の外には、どこまでも青い夜の海があり、月光を含んだ波が、車輪の音に合わせて静かにほどけていた。線路は見えない。枕木も砂利もない。ただ車両だけが、世界の記憶から少し浮き上がったみたいに、濡れた闇の上を滑っている。

僕がその列車に乗ったのは、終電を逃したからではなかった。

駅で名前を落としたからだ。

改札を通る直前、胸ポケットに入れていた社員証が空っぽになっていることに気づいた。いや、正確に言えば、社員証そのものはそこにあった。顔写真も、会社名も、バーコードも残っていた。ただ、僕の名前だけが、そこから抜け落ちていた。

白い余白。

その四文字分の空白を見た瞬間、僕は自分が誰だったのかを思い出せなくなった。

慌てて駅員に声をかけようとしたが、ホームには誰もいなかった。発車ベルも鳴らない。広告看板はすべて青い光を帯び、階段の下から、海の匂いがした。

そして、列車が来た。

古い温室のように硝子ばかりの車両だった。天井は丸く、窓は大きく、蛍光灯は水底で燃える月みたいに青白かった。扉が開くと、車内から湿った風が吹いた。

乗るしかない、と思った。

理由はなかった。名前を失った人間は、理由より先に移動しなければならないのだと、その時の僕はなぜか知っていた。

車内には、ひとりだけ先客がいた。

金色の短い髪をした女性だった。海の光を吸ったような青い瞳をしていて、白い服の肩口には透き通る模様が浮かんでいた。彼女の肌には小さな水滴がいくつもついていた。雨に濡れたというより、体の内側から夜明け前の露が生まれているみたいだった。

額には、菱形の光。

僕が見つめていると、彼女は少しだけ笑った。

「落としものを探しに来たのね」

「たぶん」

声に出してみると、自分の声が知らない人のものみたいに聞こえた。

彼女は窓の外を指した。海面の上に、無数の白いものが浮かんでいる。貝殻かと思ったが、違った。名札だった。学生証、診察券、郵便物の宛名、古い手紙の署名。誰かがどこかで失くした名前たちが、波に洗われながら、月の下で眠っていた。

「この列車はね、忘れられた名前を集めるの」

「あなたは車掌さんですか」

「ううん。私は、忘れられなかった名前」

その言い方が妙に静かで、僕は次の質問を飲み込んだ。

列車は速度を上げた。窓の外で、青い海が線になった。車内の床に映った光が、魚群の影みたいに揺れる。彼女の横顔にも、水の模様が走った。

「名前を失くすと、人は軽くなるわ」

「困ります」

「ええ。だから困るの。軽くなりすぎると、どこへでも行けてしまうから」

彼女は膝の上に置いていた小さな箱を開けた。中には、透明な切符が何枚も入っていた。どれも氷の薄片のようで、角度を変えるたびに、知らない文字が浮かんでは消えた。

「あなたの名前も、この中にあるかもしれない」

「返してもらえますか」

「見つかればね。でも、名前は持ち主に戻りたがらないことがあるの」

「どうして」

「持ち主が、その名前で生きることに疲れているとき」

列車の音が、一瞬だけ遠ざかった。

僕は反論しようとして、何も言えなかった。朝の満員電車。返信していないメール。昨日と同じ挨拶。数字だけが増える会議資料。夜更けに洗面台で見る、どこか他人に似た顔。

忘れたのではない。

置いてきたのかもしれない。

「あなたも、名前を置いてきたんですか」

彼女は笑わなかった。

「私は逆。誰かが私の名前だけを残して、先に行ってしまったの」

額の光が、ふっと弱まった。

「その人は私をとても大事に呼んでくれた。だから私は、名前だけで形を保てた。でも、呼ぶ人がいなくなると、名前は水になるの。ほら」

彼女の指先から、透明な雫がひとつ落ちた。床に触れる前に、それは小さな音符の形になり、すぐに消えた。

「消えてしまうんですか」

「いつかは。けれど、それまでに誰かの忘れものを返せたら、少しだけ長くいられる」

僕は窓に映った自分の顔を見た。名前のない顔。けれどその向こうに、彼女の青い瞳も映っていた。

列車が減速した。

前方に駅が見えた。海の真ん中に浮かぶ、小さなホームだった。屋根も壁もなく、ただ白い標識が立っている。そこには駅名が書かれていなかった。空白の駅。

「ここで降りると、戻れないの?」

「戻れるわ。ただし、名前なしで」

「それは、自由ですか」

「たぶん、迷子の別名」

彼女は箱の中から一枚の切符を取り出した。透明な表面に、ようやく文字が浮かぶ。

僕の名前だった。

見た瞬間、胸が重くなった。重く、苦しく、でもたしかだった。朝に起きる理由。約束。面倒な書類。嫌いになりきれない町。返せなかった言葉。全部が一度に戻ってきた。

「持って帰る?」

彼女が尋ねた。

僕は切符に手を伸ばし、途中で止めた。

「これを持って帰ったら、また同じ毎日ですか」

「同じ名前でも、同じ人に戻るとは限らないわ」

「そんなこと、できますか」

「名前は檻じゃない。呼び鈴よ。誰かに呼ばれたとき、あなたがどんな顔で振り向くかは、あなたが決めていい」

その言葉は、青い蛍光灯よりも静かに僕を照らした。

僕は切符を受け取った。冷たいと思ったのに、掌に乗せると、少しだけ温かかった。

「あなたの名前は?」

降りる直前、僕は彼女に聞いた。

彼女は困ったように微笑んだ。

「呼んでくれる人がいない名前は、聞き取りにくいの」

「じゃあ、僕が呼びます」

「知らないでしょう」

「今から知ります」

彼女の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。列車の扉が開く。ホームから、元の駅のアナウンスが遠く聞こえた。

彼女は僕の耳元に唇を寄せ、ひとつの名前を告げた。

それは波の音に似ていた。夜明け前の息に似ていた。硝子に落ちる水滴の、消える寸前の光に似ていた。

僕はその名前を、声に出した。

すると彼女の額の光が、白く強く灯った。

「ありがとう」

彼女は初めて、泣きそうな顔で笑った。

次の瞬間、僕はいつもの駅のホームに立っていた。始発前の空はまだ暗く、電光掲示板は眠そうに瞬いていた。胸ポケットの社員証には、僕の名前が戻っていた。

ただ、髪の先が少し濡れていた。

改札を出る前に、僕は振り返った。

線路の向こうに、青い光が一筋だけ見えた気がした。海の上を走る列車の尾灯のように。

僕は小さく、その名前を呼んだ。

誰にも聞こえないくらいの声で。

けれど、遠い窓辺で、誰かが確かに振り向いた気がした。