これは、架空の場末ビジネスホテルに現れた、ありがたいのか、腹が減るのか、神々しいのか分からない八尊の滞在コメディです。

嵐の夜だった。

国道沿いの「ビジネスホテル・うすあかり」の自動ドアが、深夜二時十三分に開いた。

フロント係の佐伯さんは、最初それを風だと思った。だが、風は八人組で入ってこない。しかも全員、なぜかびしょ濡れで、なぜか肉厚で、なぜか妙にありがたかった。

先頭の人物が、静かに合掌した。

「泊まれませんか」

佐伯さんは予約表を見た。

空室はある。

問題は、予約表にない欄が急に増えたことだった。

ブーティー釈尊
ティッツ舎利弗
ブーブス目犍連
グラマラス阿南
ヴァラプチュアスイエス
バスティーヨハネ
ボリューミーペトロ
プランプユダ

「尊者? あなた尊者?」

佐伯さんは、なぜかそう聞いた。

先頭のブーティー釈尊は、深くうなずいた。

「尊者であるかは、朝食を食べ終えてから分かるでよ」

意味は分からなかったが、佐伯さんはチェックイン処理をした。

翌朝、ビジネスホテル・うすあかりの朝食会場は、静かな異変に包まれていた。

普段なら、焼き鮭、味噌汁、スクランブルエッグ、業務用パンケーキ、サラダバー、無料コーヒーが、ほどほどに疲れた出張客を迎えるだけの場所である。

しかしその朝、サラダバーの前に、法座が生まれていた。

ブーティー釈尊は、味噌汁の具の配分を見つめて言った。

「豆腐に偏らず、わかめに溺れず。これがビュッフェにおける中道である」

ティッツ舎利弗は、ロビーに置かれた朝刊を開いたまま、いつの間にか現代日本語を理解していた。だが、それを誰にも言わなかった。智慧第一とは、読めることを自慢しないことでもある。

ブーブス目犍連は、消えたトングの在りかを神通で察していた。だが、これも言わなかった。なぜなら、トングとは探す時間も含めてトングだからである。

「トングは誰のものか」

ボリューミーペトロが問うた。

「取った者のものですか」

バスティーヨハネが無料コーヒーを掲げた。

「否。戻した者のものでもある」

その瞬間、宿泊客のひとりが、パンケーキ用のトングをサラダバーへ置いた。

会場が沈黙した。

ブーティー釈尊は、ゆっくり目を閉じた。

「迷いである」

佐伯さんは、厨房からそっと新しいトングを出した。

八尊が朝食を終えたころ、正面玄関に黒塗りの車が一台停まった。

降りてきたのは、グラサンの黒服だった。肩幅が広く、礼儀も広かった。彼はフロントにまっすぐ歩いてくると、分厚い封筒を両手で差し出した。

「これからの宿泊費です」

封筒には、こう書かれていた。

一般社団法人 朝餉文化保存機構

佐伯さんは中身を確認した。金額は合っていた。むしろ、少し多かった。領収書の宛名を聞くと、黒服は迷いなく答えた。

「朝餉文化保存機構でお願いします」

怪しい。

怪しいのに、なぜか未払いだけは起きなさそうだった。

そのころ、客室では清掃が始まっていた。チェックアウトするはずのない八尊は、清掃待ちとしてロビーのラウンジに集められた。

普通のホテルなら、そこは新聞を読んだり、スマートフォンを見たり、無料コーヒーを飲んだりするだけの場所である。

だが、その日のうすあかりでは、自然に法座が始まった。

ブーティー釈尊は、紙コップのコーヒーを見つめて言った。

「無料とは何か」

ティッツ舎利弗は、朝刊を畳んで答えた。

「料金がないことではありません。誰かが先に払っていることです」

ブーブス目犍連は、遠くの自販機を見つめたまま言った。

「ならば、押し間違えた缶コーヒーにも縁がある」

たまたま居合わせた出張客が、買うつもりのなかった微糖を見つめ、深くうなずいた。

プランプユダだけは、フロントで領収書の控えを確認していた。

「裏切りではない。経理である」

誰も疑っていなかったが、本人だけが毎回そう言った。

清掃が終わるころには、ラウンジの椅子がなぜか半円形に並んでいた。無料コーヒーの空ポットは、誰に言われるでもなくフロントへ届けられていた。サラダバーのトングは、正しい場所に戻っていた。

尊者ーズは、基本的にホテルの敷地から出なかった。

外へ出るといっても、せいぜい駐車場の白線の横で、全員が横一列に並んでひなたぼっこをするくらいだった。

夕方、佐伯さんが日報を書いた。

特記事項:
尊者ーズ、滞在継続。
朝食会場、異常なし。
ラウンジにて法座発生。
支払い、謎法人処理済み。
トング、正常。

外は、嵐のあととは思えないほど薄明るかった。

ビジネスホテル・うすあかりに、奇妙な日常が始まったのである。